本ブログ開始にあたって
会社員生活にピリオドを打つ決意
2025年、社会人19年目。自分の人生の約半分を仕事に費やしてきたことになる。最初の11年間はほとんど休む暇もなく、毎日21時頃まで働き、家に着くのは22時を過ぎていた。朝の定時は8時なので、7時には家を出なければならず、6時起きの生活だった。常に寝不足で、週末に寝だめするのが習慣になっていた。時には週末も出社して仕事する必要があった。転職後は19時過ぎには家に帰れるようになったが、責任が重く、家でも仕事のことが頭から離れず、心が休まることはなかった。
そしてこの度、会社を辞めることにした。
退職の理由
会社を辞める理由は様々だ。
- 4年越しに取り組んできたプロジェクトが完了すること
- 会社としてこの事業に対するスタンスが変わり、技術職である自分の必要性が薄れてきたこと
- 今の会社での仕事をやり切ったという想い
また、漠然とではあるが、これまでとは異なることに挑戦してみたいという気持ちも湧いてきた(具体的に何をやりたいかはまだ決まっておらず、これから見つけたいと思っている)。
ただ一つ言えるのは、一度これまでの社会人生活をリセットし、自分の人生を見直したいということだ。
マレーシア移住という選択
半年後に会社を辞め、身の回りのことを整理して、妻子が住むマレーシアへ移住することになる。
「マレーシア?」と疑問に思う方がいるかもしれない。それは後述する。また詳細は別記事にしたいと思う。
妻はリモートで仕事をしながら、子どもの生活や勉学のサポートをしており、正直かなり無理をしている状況だ。移住後は、自分が主に子どもの面倒を見たり、家事を担ったりすることになるだろう。
ブログを始める理由
それでも、子どもたちが学校に行っている間は、自分の時間が持てるはずだ。しかし、今のところ次の仕事は決まっておらず、具体的にやることもまだない。
本を読んだり、ジムで運動したり、買い物を楽しんだり、やりたいことはたくさんあるが、それだけでこれまで仕事に費やしてきた膨大な時間を埋めるには足りない。
そこで、ブログを始めることにした。
まだ会社を辞めたわけでも、移住したわけでもない。だが、会社を辞めて新しい生活を始める期待に胸を膨らませている一方で、漠然とした不安が心に影を落としている。
- 自分は本当に社会から離れて大丈夫なのだろうか。
- 自分の人生を無為に浪費することになるのではないか。
- 社会人としてこれまで築き上げてきたものが崩れ落ち、またゼロからのスタートになるのではないか。
この漠然とした不安は、これまでの人生で自分が築き上げてきた「パラダイム」(または思い込み)から来ているのだと思う。
男は外で働くべきだ、家庭のために生活費を稼ぐべきだ、そうしないと社会から信用されない。つらいこともあるが、皆そうやっている。
そのパラダイムを自分は長く握りしめてきた。そして、いざそこから離れようとすると、不安に陥る自分がいる。不安は問いかけてくる。「本当に大丈夫か?」「これまで築き上げてきたものを捨てるのか?」と。
しかし、この不安を味わうこと自体が、今の自分には必要なプロセスなのかもしれない。その上で、この心境がどのように変化していくのかを記録するのも面白いかもしれない。
個人的な日記に書き留めるのもよいが、どうせならブログという形で公開してみたいと思う。読んでくださる方がいるかもしれないし、誰かに読んでもらうつもりで文章を書くほうが、適度な緊張感が生まれる。それが、より深く自分の想いを掘り下げるきっかけになるかもしれない。
情報過多の現代におけるメディアとの向き合い方
実は退職と移住については、数年前から準備を進めてきた。
妻にも話をしており、彼女は賛同してくれた。その上で、僕の退職を待たずに、子どもが小学校に入学するタイミングで先に移住してしまった。
移住の話を希望的に持ち出したのは僕だったが、妻が先に動いてしまい、「本当にやるのか?」と半信半疑になりながらもここまで来た、というのが正直なところだ。
2025年に会社を辞めると決めたものの、なかなか実感が湧かなかった。しかし、いざ退職を会社に告げるタイミングを考える段階になり、次第に実感が湧いてきた。その過程で、不安に陥ることもあり、心が揺れ動いているのが今の状況だ。
長い間計画してきたことだし、妻もすでに移住しているのだから、計画通り会社を辞めるつもりだ。そして「何をするか」を考え始めると、実感が湧くにつれて再び不安が襲い、また考え直す――そんな繰り返しを続けている。
その過程も、僕にとっては記録する価値のあるものだと思い、ブログを書こうと思ったのがきっかけだ。しかし、それだけでは退職後の膨大な時間を埋めるには足りないだろう。
そこで、自分が認識している世界についても、詳細に記録していきたいと考えた。
現代はインターネットを通じて、動画やSNSなど膨大な情報が飛び交っている。一方で、旧来のテレビや新聞などのメディアとどちらが正しいのか、という議論もある。
僕も多くの人と同様に、旧来のメディア(テレビや新聞など)の情報に大きな違和感を抱いている一人だ。テレビはほとんど見ないが、インターネットを通じて新聞などのメディアの記事を目にする機会は多い。
そこで気づいたのは、日本の旧来のメディアの情報だけでは、世界で起きていることを正確に認識するには全く不十分であるばかりか、間違っているということだ。
この情報だけを信じていると、時代に取り残される――そんな危機感を抱いている人も多いだろう。一方で、そうした危機感をまだ感じていない人が多いのも事実だと思う。
感情に触れる文章を書きたい
今の時代、個人がメディアになり得る時代だ。
動画やSNSをはじめとする個人の意見を発信できるプラットフォームがあり、生成AIという優秀な編集者も活用できる。そして僕自身にも、記録したい想いや、伝えたい世界観がある。
僕の人生には多少なりとも特筆すべきことがあると思うし、それを面白いと感じてくれる人がいるかもしれない。
読者が少しでもいれば幸いだし、仮にいなくても、自分のコンテンツとして残す価値は十分にあると信じたい。
そして、もうひとつブログの序文として書きたいことがある。それは、文章があまり説明的になりすぎないようにしたいということだ。
僕はエンジニアとして、事実をもとに論理的に仮定や推論を積み上げて結論を導き、それを検証するという思考過程を長年続けてきた。
そのため、これまで僕が書いてきた文章は、感情や想いに触れることがほとんどなかった。感情はいったん脇に置き、事象を細かく分解し、一つひとつ論理的に考えるというプロセスを、家庭でも当たり前のように実践してきた男だ。
だが、今の自分にとって、人生における本質は感情に触れること、そしてその感情に言葉を与えることだと感じている。この想いについては、また別の機会に書いてみたいと思う。
ただ一つ言えるのは、僕にとって「感情に触れ、それに言葉を与えること」は人生の記録として非常に重要だということだ。
だからこそ、このブログでは感情や想いにもフォーカスしたいと考えている。
もし僕の記事を読んでくださる方がいて、僕の感情や想いには興味がないという方がいたとしても、そこはご容赦いただきたい。
AIによる検索も今後一般化していくことが予想されるので、ブログのPVは減り続けることだろう。だからこそ説明的な文章ではなく、感情に触れるということが新たな価値を産んでいく可能性も考えられる。
最後に
以上が、このブログを始めるにあたっての初期の想いだ。
これからの人生のリスタートにあたって、この想いを胸に刻みつつ、今後どのように変化するのか、その過程を楽しみつつ残していきたい。
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