はじめに:エンジニアの僕が感情を脇に置いてきた理由
人生の本質は、感情に触れること、そして言葉を与えることだ。
エンジニアで感情を脇に置いて物事を考えるということを徹底してきた自分には、とても遠い言葉だ。だが、何か強烈に惹きつけるものを感じた。
他人の問題は解決できないと思っていた
今までの人間関係における僕のスタンスはこうだ。
他人の人生に対して、僕ができることは限られている。なぜなら、人の問題に軽々しく踏み込むことはできないからだ。それはプライバシーの問題もあるし、もし「解決してあげよう」と思い、根掘り葉掘り生活の実態を調査してデータとしてまとめ、分析しようとすれば、相手を不快にさせてしまうだろう。普通は頼まれてもいないのにそのようなことをしようとしたら、怒られてしまうだろう。
そこまでしなくとも、悩み相談という形で話を聞き、表面的なヒアリング結果をもとに解決策を提案したところで、それが的を射た回答になる可能性は低いだろう。たとえ一人の人に対して一生懸命に取り組んだとしても、対応できるのはほんの数人が限界だ。それ以上のことをするには、時間も労力も足りない。だから、そもそも他人の問題を解決などできないのだ。そう思っていた。
中学時代に感じた無力感
僕は中学時代からずっと他人に対して無力感を感じていた。
僕が入った中学は、地元でもあれていることで有名であり、不良グループが多数存在しており、不良グループとはいわずとも全体的に生徒の素行がよいとは決して言えなかった。授業は常に学級崩壊状態で、まともに行われた記憶はないし、高校に入ってから僕は世の中の他の学校では学校の授業を聞いているものだったんだという事実に衝撃を受けたことを覚えている。
いじめは常態化しており、常に不登校の生徒がクラスに数人はいる状況で、それどころか学年でも常に数名(2~3名)の教師が学校に来なくなるという状況だった。僕が中学を卒業してから、高校のときに不良だった同級生が上級生からのリンチで殺された事件があったが、そのような事件も地元新聞の片隅にひっそりと掲載されるというような扱いで、そういう時代だったのかもしれない。
僕も中学1年から2年までいじめのターゲットにされていた。だが負けず嫌いな性格もあって、いじめられたらやり返すということを徹底してとはいわずともかなり意識してやっていた。不良グループ数名にリンチされたこともあったが、なぜか僕は喧嘩が強かったこともあり、相手が3名までなら勝てると思い込んで喧嘩もよくやっていた。
好きでやっていたわけではないし、毎日がつらかった。まだ子供だったから喧嘩したときはいつも泣いていたと思う。逆にいじめられてもできるだけ我慢していたが、つらすぎて泣いたらスイッチが入って、切れて殴りあいの喧嘩をしていたという感じだ。だがそうやって僕は自分の最低限のプライドを守っていた。
僕は、基本的には不良にとっても無害な存在だったはずだし、もし僕をいじめたら自分がやり返されるということがわかったのか、中学1年~2年まででいじめのターゲットからは外れていた。あと、僕へのいじめの中心だった不良が中学2年のときに、原付2人乗りで右折時に停止せず対向車にひかれて死亡したということも大きいと思う。
僕の友達だった人間もいじめにより学校に来なくなった。また明るかった生徒が、全くしゃべらなくなったということもあった(僕もその一人だと思う)。僕は周りの生徒たちがいじめにあう姿をみて、弱ければ自分のプライドを理不尽にズタズタに踏みつぶされたとしても何も言えないし、誰も助けてくれないのだと悟った。
すくなくとも小学までの子供時代の僕は、人に対して心を開いて接していたと思うし、他人が困っているのをみるとなんとかしてあげたいと寄り添うタイプの人間だった。他の子どもが喧嘩しているときは止めるタイプだったし、人のために泣いてしまうということもあった。
だが、中学のとき他の生徒がいじめられているのを止めることはできなかった。そういった正義感は、学校全体の空気のなかでは異質であり、どちらかというと強いものたちと同調して、弱いものや、不良に目をつけられたものたちへのいじめに加担するといった雰囲気だったし、逆にそれに逆らうと自分が何をされるかわからないという雰囲気もあった。
その時の僕の感覚では、いじめを止めるという行為は勇気が必要で、それは生半可な覚悟でできるものではなかった。僕も何度か止めようとしたことはあったが、中途半端な止め方では自分がやられて終わりだ。身を挺して徹底的に相手グループを叩き潰すまでやる覚悟を持ってやらなければ、止められるものではないと思った。そこまでする覚悟は僕にはなかった。そうして、僕は他人に対してどうしようもないという無力感を感じ、自分の感情を殺して、みてみぬふりをしながら現実と折り合いをつけていた。
その時、僕が感じたどうしようもないという無力感が、今も自分を束縛しているのかもしれない。
人間関係における無力感という「思い込み」
僕は人間関係において基本的には無力感を感じている。自分や家族は必ず守ろうと思っている。だが、それ以外の人達に対しては、自分にどこまで踏み込む覚悟があるのか、また相手がそれを望んでいるのか、解決することができるのか、わからない状態で、解決する責任や義務のない相手に対してそれをやることには躊躇してしまい、どうしても表面的なアドバイスにならざるを得ない。それが解決になるとは思っていないが、どうしようもないという無力感が自分の中に「思い込み」として空気のように存在していた。
エンジニアの世界で感情を脇に置くということ
自分の感情は脇に置く。
エンジニアの世界では、当たり前のように認識されていることだと思う。自分が嬉しかったから、物理的な世界で結果が変わるわけでもないし、自分が悲しかったから業務の成果が落ちるということもあってはならない。僕のようにインフラを扱うエンジニアは、ちょっとしたミスが大規模な損害に発展する可能性がある。ビジネスの世界では当たり前とされている考えだと思う。
だからうれしい、悲しいなどは関係ない、なんとなくいやな感じがするという感覚は大事だが、それがなぜなのかブレイクして、その嫌な感覚を理論的・構造的に説明できるようにする。それが正しいアプローチだと信じていた。
人生の本質:感情に触れ、言葉を与える
人生の本質は、感情に触れること、そして言葉を与えることだ。
だが、それでは僕の想いはどうなるのだろう。取るに足らない些末なものとして、無視し続ければよいのか。他の人が抱えている想いはどうなるのか。つらくて、立ち上がれない時もある。そんなときは病気として扱えばよいのだろうか。病気になるまで、頑張らなければならないのか。
こう書いているが僕は自分の想いをこれまで軽視してきたばかりに、自分の気持ちがわからなかった。自分は社会人の男として、こうしなければならない。会社の中で与えられた役割と責任のなかで、このように行動しなければならない。家庭を持つ父親として、こうあらなければならない。そういった思い込みから、自分の言動を決めており、その思考過程のなかに自分の感情が入る余地はほとんどなかったと思う。仮にあったとしても、いったん脇に置き、選択肢を検討するうえでのメリット・デメリットのひとつとして、それらを検討のなかに含めるなどの扱いとしていた。
そういった生き方をしていて、つらいこともたくさんあったし、納得いかないこともたくさんあった。それでも自分の感情を押し殺して、現実と折り合いをつけて、ある意味なかったことにして生きてきたのだと思う。
「こうあらなければならない」という思い込みは幻
こうあらなければならないという思い込みを握りしめながら生きてきた。
でもその思い込みは幻だと気が付いた。なぜ僕はそのような思い込みを持っていたのだろう。これまで生きてきたすべての人生の中で、そのように思い込んでいた。それは中学の時のいじめの影響もあるのだろうし、幼少期の経験や、社会人になってからの経験も含め、すべての人生経験をもとに結果的にそのように思い込んでいたのだと思う。
現実世界に対する認知(思い込み)は変えられる
現実世界に対する認知、つまり思い込みは変えることができる。まずは自分が今どう感じているのか、それに言葉を与えることだ。うれしいのか、悲しいのか、楽しかったのか、つまらなかったのか。うれしかったとしたら、なぜうれしかったのか。今、ここにいる自分にフォーカスして、感情に触れ、言葉を与える。それだけでよいのだと思う。
人に対しても、ただ聞いてあげる、その気持ちに言葉を与えて、なぜそう思ったのか自分自身のなかにある想いを探求していく。それだけで救われることもある。自分の感情に、現実との折り合いをつけてなかったことにするよりも、そっちのほうがずっと健全だし、次に進むことができる。
自己開示を行い、フィードバックを受けることで、自分の中の新たな可能性の窓が開けるという。そうやって人は新たな窓を開け続け、自分の幅を広げていくのだと思う。

自分の気持ちにフォーカスする
僕はまずは自分の気持ちにフォーカスしたい。自分の気持ちがわからなかった、それをわかろうとするだけでも進歩なのだと思う。
人間関係においても感情に触れずに、表面的な情報だけでは解決できないし、本来事象を解決するために相談しているのではない。自分の心のなかの未完了の部分に、言葉を与え、それを探求していくことで、完了していくこともある。そしてそうすることによって人は前に進めるのだ。
僕は人の問題を技術的に解決しようとしていたが、そうではなくどういった想いを持っているのか、それを少しでも探求することで、その人の新しい窓が開けていく。そのために対話が行われ、それによって人は成長していくのだと思う。
「何をすべきか」ではなく「何をしたいか」
人生を考えるうえで、何をすべきなのかではなく、自分は何をしたいのか、心の声を聴いてあげたい。これまで自分の感情に折り合いをつけてきたが、今からでも全く遅くはない。自分の気持ちを優先して、自分の心の声を聴いて、それに従ってみたい。
コメント